基礎学力を考える 企業トップインタビュー
トヨタ自動車株式会社
代表取締役会長 張 富士夫 氏
1937年生まれ。1960年東京大学法学部卒業後、同年トヨタ自動車工業株式会社(1982年トヨタ自動車株式会社へ社名変更)に入社。1988年トヨタモーターマニュファクチャリングU.S.A.株式会社取締役社長に就任し、トヨタ単独での米国初の海外生産工場となったケンタッキー工場の設立・稼動に貢献。1994年トヨタ自動車株式会社常務取締役に就任後、取締役副社長、取締役社長、取締役副会長を歴任し、2006年より現職。その他、社団法人日本自動車工業会会長、社団法人日本経済団体連合会副会長、日中経済協会会長も務める。
1.当社が求める「自ら考え実行する力」
トヨタでは、理屈を並べるよりも現場に行って動くこと、つまり「実行」をより重視します。私どもでは『現地現物』という言葉で表していますが、あれこれ頭で考えるのではなく、自らが行って見て考えること。そして良いと思ったらまずやってみる。そんな人材を求めています。
そもそもトヨタは、当時ほぼ欧米にしかなかった自動車を、見よう見まねで作るところから出発した会社です。その過程では、無数の挫折や失敗がありました。換言すれば、失敗を糧に成長してきた会社なのです。ですから、その行動の意図が間違っていない限り、失敗は責めないという文化があります。
また、当社が基本としている考え方に「知恵と改善」と「人間性の尊重」というのがあるのですが、後者を「人間」ではなく、敢えて「人間性」と表現しているのには意味があります。人は、指示された通りにしか動けない機械ではありません。合理性を追求したり簡便さを求めたりしながら、自分で工夫して仕事を進めることで、それぞれが主体性を持つことができます。「人間性の尊重」とは、即ち人の「自ら考え実行する力」の尊重に他なりません。
当社が求める「自ら考え実行する力」を支えるのは、以下に述べる2つの「基礎学力」と2つの「素養」だと私は考えています。
2.「自ら考え実行する力」を支える2つの「基礎学力」
(1)数理思考力
製造業ではモノづくりのあらゆる工程で、品質や原価を意識しなくてはなりません。何が良品質やコストダウンにつながり、どうすれば良い結果が生まれるのか。一人ひとりが常に品質・原価を意識することで、従業員の行動が変わり、結果として、全工程での生産性向上につながることになります。このような場面で問われるのが、「数理思考力」です。
ここで言う「数理思考力」とは、高度な計算能力のことではありません。複雑な数字処理は、計算機やコンピューターに任せれば良いのです。大切なのは、その数字の意味するところを想像する力です。その数字の背景には何があるのか、どんな動きがあったのか。それを想像できなくては、数字は単なる記号の集合体に過ぎず、次の行動につなげるきっかけにはなりません。
(2)言語技術とその土台となる漢字力
記号の集合体から意味を想像することの大切さは、数字に限ったことではありません。文字という記号の集合体、即ち言葉や文章を読んで意味を想像し、そこから具体的な事象や自分に求められていることを理解する必要があります。この想像力が不足すると、行動を引き起こすことはできません。こちらが意図するように相手に行動してもらうためにも「言語技術」が必要なのは言うまでもありません。そして「漢字力」は、その土台となるものだと思います。
最近は、テレビやゲーム、漫画などが普及したことから、子どもたちの活字離れが進んでいます。古典的名作や歴史小説の中にも、漫画化されているものがあるようです。もちろん、良質な作品も増えているでしょうが、それらの作品から溢れるビジュアルイメージは、発信者側によって固定化されたものであり、受け手側の想像力を鍛えることにはつながりません。自分の想像力を鍛えるためには、活字から意味を読み取り、自分なりのイメージを膨らませること、即ち読書が大切なのです。
私は小学校4~5年生の頃、祖父の家にあった本を夢中になって読みました。これが「言語技術・漢字力」の向上につながったと思っています。中でも愛読したのは「講談本全集」で、分厚い本の数々を片っ端から読破していきました。その中には学校で習っていない難しい漢字もたくさんありましたが、すべて読み仮名が振られていたので、小学生の私でも難なく読めました。また、何度も繰り返し読むうちに、難しい漢字も自然と頭に入っていきました。その甲斐あってか、中学生になった頃には、同級生が知らない漢字もすらすらと読み書きできるようになっていたのです。その世界に没頭できる書物に出会い、繰返し読んだことが奏効したのでしょう。
今の子供たちは読書の習慣が身についていないと聞きますが、それを育むのは大人たちの責務でもあります。そう簡単にはいかないかもしれませんが、例えばかつて自分が読んで感銘を受けた本をプレゼントするなどして、子どもが本の世界にのめり込むきっかけをつくるなど、努力してみる必要があると思います。
3.「自ら考え実行する力」を支える2つの「素養」
(1)習慣化された挑戦行動
当社では、最初から高度な知識や技能を持った人材を求めているわけではありません。常に新しいことに挑戦し、自らを伸ばしていきたいという意志を持っていることのほうが大切です。仕事上で必要なスキルは入社後に育成していきますから。
そして、このような意志を持つためには、小さな挑戦と達成を繰り返すことが大切です。少し高めの目標に挑戦し、成功したり失敗したりする経験を繰り返すうちに、人は挑戦を挑戦だと思わなくなります。こうした「習慣化された挑戦行動」が、その人に自信と自己肯定感を与え、さらに大きな挑戦へと導くのです。
当社では、単に頭脳明晰な人よりも、強い精神力と行動力を併せ持った「タフな人」に大きなプロジェクトを任せたいと思っています。生まれつき「タフな人」など存在しません。「タフな人」とは、即ち「挑戦行動が習慣化されている人」のことでありましょう。
(2)社会に対する感謝の気持ち
企業の本来の存在目的とは、人々が共生できる豊かな社会づくりに貢献することであって、ただお金を儲ければ良いということではありません。もちろん、きちんと利益を出すことは大切ですし、当社も欠かさず税金を納め続けています。税金をきちんと納めること自体が社会への貢献の第一歩だと考えていますが他にもいろいろな貢献があります。自動車で言えば、より環境に優しく、また安全な車をつくることなどで、社長の渡辺は、こうした車を「走れば走るほど空気が綺麗になる車」「ドライバーも歩行者も傷つけない、絶対事故を起こさない車」といった表現で表しています。こうした夢や目標に向けて、私たちは日々行動しています。
この行動の源泉にあるのは、「社会に対する感謝の気持ち」に他なりません。トヨタ車が走っている風景を見るたびに、購入してくれたお客さまはもちろん、トヨタ車が走っている町そのものに対する感謝の気持ちが湧いてきます。また、会社の歴史を知るたびに、先人達の苦労の上に今があることに感謝の気持ちが湧きます。それらの気持ちが、ひいては人々を思い、社会を思う気持ちへと発展していくのです。
そうした心持ちを備えるには、小さな頃から身の回りや地域社会に対する「報恩感謝の心」を育むことが大切です。「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」などの挨拶は、すべて感謝の気持ちを表しています。まずは、基本的な挨拶の励行から始めることが肝要でしょう。
4.「協調しながら競争する」経験を積んできて欲しい
これらの要素以外にも、社会に出るまでにぜひ積んでおいてほしい経験があります。それは、「協調しながら競争する」経験です。
企業においては、一人で完結する仕事は存在しません。特にモノづくりは、社内外の様々な立場や考え方の人達と協調なくして成し遂げられません。また、国際企業は様々な利害関係者と協調しながらも、同時に世界レベルでの厳しい競争を繰り広げています。品質、価格等はもちろん、戦略立案そのものまでも、日々競い合っているのです。競争を全く経験しないまま社会に出れば、立ちすくむばかりでしょう。
社会に出るまでに、入学試験や部活動などを通じて、他人と競い、勝負ごとの醍醐味を知り、自らを切磋琢磨する経験を積んでおいてほしいと思います。また、幼少期においては、たくさんの人と遊んでおいてほしいと思います。集団での遊びを通じて、子どもはグループ内での「役割」や「我慢すること」の大切さを覚えます。そうした経験が、社会人となってから「協調しながら競争」することの疑似体験となるのです。
5.「基礎学力」の不足による「苦手意識」や「つまずき」を持たせないために
私は小学校3年生の時に、中国の北京で終戦を迎えて帰国しました。そのため、小学校1~2年生の頃に十分な学校教育を受けることができず、後になってずいぶんと苦労した記憶があります。
中でも苦労したのが「理科」です。大学受験の際は「物理」での得点は期待できず、他の7科目で8科目分をカバーしなければならないほどでした。当社に入社して数年後、生産現場の改善指導のために、ある部品供給業者(サプライヤー)を訪れた時の話ですが、そこの工場長が従業員に対して訓示した中で「張さんは、電気の直流と交流も分からないのに改善指導ができる。君たちはもっと高度な知識を持っているのだから、頑張れるはずだ」と引合いに出されたこともありました。
初等中等教育における「基礎学力」不足は、大人になるまで尾を引きます。「苦手意識」や「つまずき」を生まないためにも、学ぶべき時に、学ぶべき範囲まで、子供達全員を導く、つまり、全ての子供達に「基礎学力」を遍く身につけさせることが大切だと思います。
※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。