基礎学力を考える 企業トップインタビュー
日本郵船株式会社
名誉会長 根本 二郎 氏
1928年生まれ。1952年東京大学法学部を卒業後、同年日本郵船株式会社に入社。代表取締役社長、代表取締役会長を歴任後、2003年より現職。日本経団連名誉会長。中央教育審議会会長、日本経営者団体連盟会長、土地政策審議会会長、石油審議会会長等も歴任。藍綬褒章、早稲田大学名誉博士号、勲一等瑞宝章、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、フランス レジオン・ドヌール勲章、イタリア グランデ・ウッフィチャーレ章、等を多数受賞。また、財団法人中東協力センター会長、財団法人こども未来財団会長、財団法人あしたの日本を創る協会会長、財団法人長寿社会開発センター会長も務める。
1.正しい時代認識を持つこと
企業で活躍する人材になるためには、まずは正しい時代認識を持つことが大切です。その認識があって、初めて企業が「実現すべき価値」を見い出すことができます。企業が提供する価値に対して、顧客はその対価を支払ってくれるのです。これこそ、企業活動の根本に他なりません。
正しい時代認識を持つためには、「教養(リベラル・アーツ)」とそれを支える「基礎学力」を備えていることが重要です。「読み書きそろばん」なくして、過去を理解し、未来を想像することも、創造することも不可能だからです。
私自身の時代認識をご紹介しましょう。
私は、現代は大きな変革の時代だと認識しています。これは、18世紀に起こった3大革命(フランス 市民革命、イギリス 産業革命、アメリカ 独立革命)以来のことでしょう。
20世紀の前半は、2度の世界大戦、飢饉、社会革命等によって世界中で1億人以上もの人が犠牲になるという、人類史上かつてない悲劇の時代でした。ところが20世紀後半に入ってくると、今度は大きな経済発展を遂げる時代に突入していきます。戦勝国アメリカの「アメリカン・ドリーム」は言うまでもなく、敗戦国の日本まで「所得倍増」を掲げるほど、世界中が経済的な繁栄を謳歌した時代だったのです。
しかし、20世紀最後の四半世紀に入る頃には、この繁栄にも影がさしてきます。ソビエト連邦の解体やベルリンの壁の崩壊によって、「鉄のカーテン」の向こう側にいた人々が世界規模の自由経済というマーケットに進出してきました。それによって、「グローバリゼーション」が一気に加速し、世界中が厳しい競争社会へと突入したのです。
これに追い討ちをかけたのが「IT革命」です。情報処理速度の高速化は、人類に大変な利便性と効率化をもたらしましたが、同時に人間にとって非常に大切な時間や空間を奪っていきました。例えば、子どもたちは、ゲーム機等が提供するバーチャルな仮想現実に夢中になり、家族や地域社会との絆が非常に脆弱になってしまっていることなどです。
そして現在の21世紀。それはまさに「グローバリゼーション」と「IT革命」が生み出した「人間性疎外の時代」であると言えるでしょう。この流れは今後も益々加速していくと思われます。
日本経団連や日本郵船の名誉会長など、様々な立場で日本の未来やあるべき姿を考える時、私の中にあるのはこのような時代認識です。みなさんは、どのような時代認識を持っていらっしゃるでしょうか。
2.「人間性疎外」克服のために
(1)基本に戻る
「人間性疎外」克服のためには、あらゆる局面において基本に戻ることが大切です。基本に戻るとは、的確な時代認識の上で、「実現すべき価値」を見極め、その価値を実現するための「処方箋」を作り、実践していくことです。
(2)不易の原則を体得する
「実現すべき価値」を見極めるためには「基礎学力」が欠かせません。過去の賢人達が残した言葉には、不変の価値が多く含まれています。それらの言葉の神髄は、書物に記されています。日頃から、読解力という「基礎学力」を駆使して読書を継続し、不易の原則を体得しておく必要があるのです。
例えば、「市場主義経済の父」といわれるアダム・スミスの言葉です。彼の著書では『国富論』が有名ですが、私が取り上げたいのは『道徳情操論』の中にある言葉です。彼はこの中で、「市場経済がうまくいくためには、人に対する思いやり(Benevolence)をもって運営されなければならない」と説いています。彼の「経済学」は「モラル・サイエンス」なのです。自由経済の「自由」とは、「自由放任」ではなく「道徳的規律に基づいた自由」であるというのです。私は、この彼の言葉が今の日本に対する警告のように思えてなりません。
また、「グローバリゼーション」が進むほど、「ハーモナイゼーション」つまり、聖徳太子の説いた「和をもって尊しとなす」の精神も大切な価値観となってくるでしょう。「家族とコミュニティ」についても、その大切さを改めて見つめ直すべきと思います。これらの価値観は古今東西、幾星霜を経ても変わらない、不易の原則であると思います。
(3)「基礎学力」を駆使して「実現すべき価値」の「処方箋」を作る
「処方箋」を作る際にも「基礎学力」が必要です。過去の成功例や失敗例を歴史に学び、数学や物理で鍛えた論理的な思考を積み重ねることにより、最適な戦略を構築できなくてはなりません。構築した戦略や方法を多くの関係者と共有するためには、日本語力が欠かせないでしょう。
(4)基本行動のPDCAサイクルを廻す
戦略を企画・立案した後は、実際にそれを実行し、その成果を定期的に検証し、その結果を再び戦略に戻して修正を加えるという「回転の手法(PDCAサイクル)」を繰返し行っていきます。これは一見当たり前のことですが、実は何よりも難しく、そして何よりも大切なことなのです。企業活動においてはもちろん、教育改革や個人レベルでの学習法においても同様と言えるでしょう。
私自身は、残念ながら教育改革においては、この「回転の手法」が満足だったとは考えていません。どんなに優れた提言や政策でも、定期的な検証とその後の政策への反映を行わなければ、効果をあげることは難しいでしょう。
学習法に関して申し上げれば、「基礎学力」などの継続した反復訓練が必要な分野ほど、実は身につけにくいものです。「回転の手法」を用いて目標設定と効果測定を繰り返すことで、学力が身についていることを実感でき、学び続ける意欲が湧くのです。そして、学生の最終的な評価については、到達度試験・資格試験といったいわゆる「出口管理」も徹底すべきと考えます。
3.初等・中等教育において必要な5つの教育
古来より「知育・徳育・体育」と言われますが、私はこれに敢えて「美意識」を加えたいと思います。たとえ有能な技術者になっても、「美意識」が欠如していると、人類にとって不利益をもたらすような技術開発を行ってしまうかもしれません。例えば、原子力の技術を核兵器開発に転用してしまったり、バイオ技術を細菌兵器開発に転用してしまう、などは「美意識」の欠如の現れではないでしょうか。また、美意識に伴う「感性」は「物づくり」等の「すり合わせ」の技術にも必要です。「実現すべき価値」を見誤らないためにも、「知・徳・体・美」のバランスのとれた人材育成が肝要なのです。
では、子供達の「教養」とそれを支える「基礎学力」を育み、「知・徳・体・美」をバランス良く身につけさせるためには、どんな教育が必要になるのかというと、次の5つのことだと考えます。
(1)天然(自然の摂理)に学ぶ
自然の摂理を身につけるためには、いろんな実体験を重ねることです。林間学校や臨海学校などで自然に接し、宇宙の摂理まで感じ取って欲しいと思います。
(2)古典に学ぶ
先述したように、昔の賢人達の言葉は様々な示唆に富んだものです。人類の膨大且つ偉大な遺産でもある古典に接して、歴史の教訓をおおいに学んでいただきたいと思います。
(3)勤労に学ぶ
農作業やボランティア活動などを通して、人間の活動の根源でもある勤労の意識を体得することも大切でしょう。
(4)芸術に親しむ
芸術に親しむことによって、美意識と感性を養い、世界との調和や協調の精神を養っていきましょう。
(5)スポーツを愛好する
スポーツを通じて、フェアプレーや「One for all, All for one」の精神を培っていくことも必要でしょう。
4.「学習社会」をめざして
21世紀の変動激しい国際社会において、日本がより高度の存立基盤を維持して行くためには、「揺籠から墓場まで」の国民全員が学習に参加する「学習社会」の実現を目指すべきである事は明らかです。
もちろん企業としての責任も重大です。大学を卒業して、企業に入ってくる人たちは40年間企業で過ごすことになります。これは大学を10回も卒業できる年月です。ですから、企業は社員に対して、技術面はもちろん「教養」や「基礎学力」も含めて、人間的な成長を促すような教育を保障する義務があると思っています。
人材の育成に終わりはありません。教育機関では、各段階で習得すべき「基礎学力」について全員に習得させる責務があるでしょう。それと同様に、企業もまた「人」を育て続ける責務があるのです。
※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。