基礎学力を考える 企業トップインタビュー
凸版印刷株式会社
代表取締役社長 足立 直樹 氏
1939年静岡県生まれ。1962年中央大学法学部卒業後、同年凸版印刷株式会社に入社。常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長などを歴任後、2000年より現職。対外活動として、経済同友会幹事、中央大学理事、お茶の水女子大学経営協議会委員などを務める。
1.深刻な言葉と漢字の使い方
今の日本は、基礎学力の低下という点で、目を覆いたくなるほどの惨状にあると思います。特に問題なのは、「言葉」と「漢字」の使い方で、「話し言葉」と「書き言葉」の使い分けすらできない若者がたくさんいます。弊社の新入社員研修のレポートを見ても誤字脱字が目立ちますし、尊敬語や謙譲語、丁寧語などが常識的なレベルに達していないケースも多々あります。時には、通常の言葉遣いでは考えられないような、コミックばりの擬音が出てくることさえあります。
また、社員のレポート等を読むと、意味が十分に把握できていないまま、外国語やカタカナ表記を乱用しているのが気になります。中途半端な英語やカタカナを使うくらいならば、日本語で書けばよいのです。私は、カタカナの後ろにカッコ書きで日本語を書くのではなく、日本語の後ろにカタカナで注記を加えるよう、社員に指示しています。正確な日本語を使うことで、自らの意思をきちんと伝達することが大切なのです。
企業の国際化に伴い、社員にTOEICの受験を課す企業が増えました。しかし、私は英語を習得する前に、まず正しい日本語の読み書き能力を身につけることが、社会人として大切だと思います。
本来、漢字や言葉遣いの指導は学校教育の役割ですが、お客様への挨拶文もろくに書けないとなれば、見過ごせない問題です。企業が正しい日本語の使い方の指導まで行うのは、本来的ではないとしても、必然的にやらざるを得ない状況にあると思います。
2.大切なのは家庭での指導とコミュニケーション
もちろん、学校教育だけでなく、家庭の責任も大きいと私は思います。子どもが誤った日本語を使った際、本来は親がきちんと指導すべきですが、「そんな言葉、古い」という子どもの反論に、多くの親が二の足を踏んでいます。しかし、「新しい・古い」と「正しい・間違い」は本質的に異なる問題で、先人たちがこだわってきた所作を含む言葉遣いは、「不易流行」の不易です。子どもの反論にひるむことなく、家庭でも正しい言葉遣いを教えていく必要があると思います。
私の場合、父が新聞記者だったため、家に何種類もの新聞があり、文字に囲まれた幼少期を過ごしました。そして、父や新聞記者となった2人の兄たちの新聞批評を聞いて育ちました。そのおかげで、語彙力や言語力、思考力が、随分と磨かれました。大切なのは、子どもが文字に親しめる環境を用意してあげることだと私は思います。
もう一つ大きな問題は、子ども同士のコミュニケーション不足です。今、世間で騒がれているいじめも、元をたどれば、子ども同士のコミュニケーション不足に起因します。我々が子どもの頃は、学校から帰ってくると、隣近所の1~6年生が上も下もなく交じりあって遊び、上級生は下級生の面倒をよく見ました。もちろん、ケンカもしましたし、悪いこともしましたが、今のような陰湿ないじめはほとんどありませんでした。一方、今の小学生は、異なる学年と会話や対話する機会も少ないですし、家に帰るなり塾へ行ったり、一人でゲームに興じたりしています。今、多くの教育問題が指摘されていますが、一番の問題は子ども同士のコミュニケーションが希薄になっている点にあると私は思います。
3.ITツールは基礎を覚えた上で使うことが大切
新入社員レポートを読むと、誤字脱字が目立つ一方で、「漢検」の1級で出てくるような難しい字(常用漢字以外)も見受けられます。これは、その字を知っているのではなく、パソコンで変換して自動的に出てきただけの話です。文明の利器を使うこと自体、否定するわけではありませんが、若者のITツールへの過度な依存は、様々な弊害も生んでいると私は思います。
弊社では営業部門に配属された新入社員に、1年間、自動見積りシステムの使用を禁止しています。我々の時代には、見積りを依頼されると、算盤と計算機で計算と検算を繰り返しながら、手書きの見積書を作成しました。今はコンピュータに入力するだけで、瞬時に標準値段が表示されます。確かに便利ですが、そのシステムに依存すると、その裏側にある見積りのロジックを見抜けません。印刷・加工の種類は実に多様で、お客様のニーズも千差万別です。営業の社員には、単に言われた通りの見積書を出すだけでなく、顧客ニーズの背景にある課題を汲み取り、付加価値をつけた提案をしていく能力が求められるのです。そのためには、印刷物が作られる仕組みや顧客課題の解決の仕方といった本質的な部分を理解した上で、自分の脳を働かせて見積書を作ることが重要なのです。ITツールは、基礎を覚えた上で使うことが大切で、ITばかりに依存すると、ITに「使われる」ようになってしまいます。
今の若い人たちには、細かなスキルの習得に固執せず、物事を大局的に見渡せるようになってほしいと思います。私は入社してすぐ、上司から「印刷のことは覚えなくてよい。担当した業界のことを学べ」と指導されました。当時は、印刷会社に就職したのに印刷を学ばなくてよいとは、一体何事かと大変驚きましたが、今ではその先輩に感謝しています。その後、私は様々な業界を担当しましたが、各業界の産業構造を一生懸命学ぶことで、お客様とより深くコミュニケーションを行い、社会の趨勢を俯瞰して見る力が身についたと思っています。
4.「活字文化」の継承は我々の宿命
「文化」とは、人類の様々な有形無形の経験や創造の成果を伝承したものです。そして「言葉」は、その文化を広げ多くの人々に益をもたらす貴重なツールです。文化の伝承は、「話し言葉」よりも、主に「書き言葉(文字)」で行われます。そして、文字で記されたものを正しく理解し活用する「基礎学力」があれば、人は歴史の積み重ねの配当とも言える「恵み」を享受できるのです。
この「文字」による「恵み」をより広範に速く伝達する手段が「印刷」です。その意味で「印刷」は、火薬や羅針盤などと並び、3大発明の一つと歴史的に位置づけられているわけです。我々はその一端を担わせていただいているわけで、その文化を継承してきた先人たちに、感謝をしなければなりません。
その恩返しの一環として、弊社では印刷文化をより多くの方々に知っていただくことを目的として、2000年秋に印刷博物館を開館いたしました。おかげさまで、開館以来、来場者の数は18万人を超え、一般の方々はもちろん、大学生や高校生、小中学生にも利用され、小学校の「総合学習の時間」などでも、活用されています。また、世界の印刷とコミュニケーションの歴史を記した『印刷博物誌』を5年間かけて制作し、学校や図書館などに寄贈いたしました。こうして、多くの方々に印刷物や活字に慣れ親しんでいただくことで、印刷文化の素晴らしさを伝えていければと考えております。
現在、先進国の中で出版事業が衰退してきているのは日本だけです。米国では、親が子どもにクリスマスプレゼントとして本を贈ることが珍しくありませんが、日本では近頃こうした習慣が薄れてきているように感じます。文化や習慣の違いはありますが、親が積極的に子どもに本を読ませるようにしないと、活字離れや学力低下に歯止めがかかりません。
今後、先人が築いてきた「文字・活字文化」をどうやって次の世代に継承していくのか、それは出版社や印刷会社、執筆者など、文字に携わるすべての人間が考えるべき、重要な課題だと思っています。
そして、学生のみなさんには、「基礎学力」と「基礎教養」を身につけ、文化を享受し、活用し、そして伝承できる人になっていただきたいと思います。
※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。