基礎学力を考える 企業トップインタビュー
旭化成株式会社
代表取締役社長 蛭田 史郎 氏
1941年生まれ。1964年横浜国立大学工学部応用化学科卒業後、同年旭化成工業株式会社(2001年旭化成株式会社に社名変更)に入社。レオナ工場長、取締役エレクトロニクス事業部門長、専務取締役等を経て、2003年より現職。公職活動では、国立大学法人横浜国立大学経営協議会委員、社団法人日本化学工業協会副会長、社団法人日本経済団体連合会教育問題委員会共同委員長、などを歴任。
1.最も大切なのは「歴史」を学ぶこと
『私たち旭化成グループは、科学と英知による絶えざる革新で、人びとの「いのち」と「くらし」に貢献します。』これが当社が大切にしている基本理念です。
ここで述べられている「絶えざる革新」に欠かせないのが、「歴史」を学ぶことです。革新とは、過去に生み出された英知の上に新たな価値を生み出すことです。そして「歴史」こそが、人類の過去の英知に他ならないのです。「歴史」を学んでいないと、先人が既に行った成功や失敗を「革新」だと思い込んで挑戦してしまうような愚も行いかねません。
過去の「歴史」を文字や記録の形で後世に残せることが、人間と動物の大きな違いのひとつです。「歴史」を学び、その英知を活かすことができるのは人間だけなのです。
そして「歴史」を学ぶことで、物事を「多面的」「根本的」「長期的」に見る視点や考え方が身につきます。これは、多くの判断や意思決定を行う企業人にとって、最も必要なことなのです。
ところが、昨今の日本全体の傾向として、極めて対症療法的な思考や行動が目に付きます。当社においても若手のみならず、中堅社員や管理職にも見受けられる傾向です。非常に残念に思います。
2.あらゆる職種で問われる「歴史」の素養
当社が行っている事業のひとつである住宅事業では、お客さまの持っている住環境に対する夢を形にして提供することが使命です。そのためには、相対するお客さまの背後にある「価値観」や「人生観」などを、お客さまの言葉の行間から推察し、的確な提案に繋げていかなくてはなりません。人とはどういうものか、どう感じてどう行動するのかという、言葉の裏にある、本当に言いたいことを汲み取るためには、「歴史」から学ぶ必要があるのです。
科学における発明も、第三者から見ると、何も無いところから突然現れた天才のひらめきのように見えるかもしれません。ですが実際の発明とは、過去の知見の上に生まれているものばかりです。価値ある発明をする科学者ほど、科学の「歴史」を徹底的に調べ上げ、自分の中に取り込んでいるものです。そして、異なる知見同士がどこかで繋がって、新たな知見が生み出されるのです。
3.「歴史」の学び方
私は小学校生頃から、歴史小説を読むことが大好きでした。戦記物を中心に、「国盗り物語」や「三国志」などを繰返し読んだことを覚えています。
その時に大切なのが、その「歴史」の背景には何があり、人々はどう思い、どう動き、後の「歴史」にどう影響したのか。それらに想像を膨らませながら読むことです。
例えば、1930年代にドイツが国力を持った背景には、痩せた土地でも育つジャガイモの苗を南米から輸入したことで、食料の増産ができたことがありました。織田信長が強い兵力を持てた背景には、故郷である濃尾平野は農業の生産性が高く、兵農分離が行い易かったという背景があったのです。
最初のきっかけは、歴史上のある出来事に興味を持ったからでも構いません。やがて読み込んでいくうちに、「歴史」全体に視野を広げてみてください。すると、それぞれの現象が様々な形で繋がっていることが分かります。まさに、「多面的」「根本的」「長期的」な視点で「歴史」を眺めることが大切なのです。
そして、それらの「歴史」を学ぶためにも、徹底した「基礎学力」が重要なのです。「読み書き」能力なくして歴史書は読めず、「計算」能力なくして時代考証などできないのですから。
4.グローバルな競争社会に貢献できる人材を育成するために
世界はグローバルな競争社会に突入したと言われています。
しかし、その世界に飛び込んでいく若者達に対する教育は、むしろ競争を避けさせる方向に動いている風潮も見受けられます。「子供が傷付くから競争させない」という判断は当面の優しさではありますが、「長期的」視点に立った時に、果たして本当の優しさだと言えるでしょうか。それもまた対症療法に過ぎないのではないでしょうか。優しさと甘さを履き違えてはいけません。覚えさせた方が良いものは、例え本人が嫌がっても徹底して覚えさせることも必要です。
また、グローバル競争社会で活躍できる人材になるためには、「多面的」「根本的」「長期的」な視点を持って多様性を受容できる能力が必要です。
当社は、より強い競争力を持つために、2003年から分社・持株会社制へ移行しました。現在の経営体制はあくまで現状での最適に過ぎず、今後の事業の方向性に関する意思決定は、全て持株会社が行います。グループ内の事業会社間の異動を含む社員の人事決定権や、各事業への資源配分や事業領域の変更に関する決定権も、持株会社が持ちます。このように、あくまでも「全体最適」を重視した意思決定を行うために、特に幹部や次世代リーダー達には「多面的」「根本的」「長期的」な視点が求められることは言うまでもありません。
そのような視点を持つためには、ベーシックで広範囲な「基礎学力」を備えていることは当然であり、その上に自分が進みたい方向に関する専門知識を培うべきでしょう。つまり、若い人たちには「基礎学力」を徹底して身につけることが重要なのです。
5.子供達を取り巻く環境要因
これまでに指摘してきた問題点に関して、学校だけを責めるわけにはいかないと思います。少子高齢化や大学進学率の上昇などの環境変化も大きく影響しています。「良い学校に入る」という本来は「手段」であったはずのものが、対症療法的思考によっていつの間にか「目的」化してしまっている例でしょう。
また、急速なネット社会の発展も大きな環境要因です。ネットを通じて氾濫する情報に対して、どのように情報を選択し、真偽を確認し、利用し、蓄積していくのか。その仕組みや方法論が追いついていないと感じます。
例えば新聞であれば、重要な記事は大きく書かれ、嫌でも目に入ります。ところがネットでは、見たいと思う(自分で検索した)情報以外は見ることができず、見たくなくても見る必要がある情報は全く入ってきません。これだけ氾濫する情報の中から、必要な情報を漏れなく的確に判断することは不可能です。新聞を購読している大人はわずか半数という話も聞きますが、安易なITツールへの依存によって近視眼的思考をする人が増加しているのではないでしょうか。このような環境では「多面的」「根本的」「長期的」な視点は育ちにくいものです。
これらの社会風潮は、政府や企業や家庭なども含めた、社会全体で変えていく必要があると考えます。
6.国際競争における日本の優位性
グローバルな競争社会では、国際社会における日本の優位性を発揮し、日本の国力を向上させていかなくてはなりません。
日本の優位性のひとつに「擦り合わせ文化」があると考えます。日本人は、様々なものを総合的に組み合わせて新たな価値を生むことが、どの民族よりも得意なのです。アナログとデジタルを融合させて、細分化していく技術こそが、日本の優位性の源泉です。
この優位性が日本に育った背景として、世界唯一の表意文字である漢字に代表される「日本文化」が大きな要素になっていると思われます。デジタルな表音文字と異なり、非常にアナログな性質を持っています。これらの文化背景が日本人の身体に染み込んでいるからこそ、デジタル社会の中で調和やバランスに対する感覚が世界中のどの民族よりも研ぎ澄まされてきたのではないでしょうか。
「擦り合わせ」即ち「総合的統合的判断」即ち「大局的判断」とも言えると思います。その基盤は「概念化力」「調和力」「情緒力」「感性」といったものであり、それらの暗黙知を形式知化したものが、漢字に代表される「日本文化」なのだと思います。「多面的」「根本的」「長期的」な思考も「日本文化」の特徴でありましょう。
国際社会で活躍する日本人になるためには、必須の「基礎学力」として「歴史」と「漢字に代表される日本文化」を学ぶことが重要であると考えています。
※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。